2008年10月18日

キックの帝王 ロブ・カーマン

1999年10月、一人の偉大なキックボクサーが引退試合に臨もうとしていた。
トレードマークの口ひげと短髪。代名詞となったローキックで世界を股にかけて活躍した
「キックの帝王」ロブ・カーマン


ロブ・カーマン少年時代はブルース・リーに憧れ、東洋武術に興味を持ち始め、16歳のころ、インドネシア武術であるブンチャックシラットを習い始めるも、より実践的な格闘技を求め、キックボクシングのオランダメジロジムへ入門。
デビュー後は、ベニ―・ユキーデの姉婿WKA世界ミドル級チャンピオンのブリンキー・ロドリゲスをKOで下すなど、栄光の現役生活をスタートさせるとこになる。

後に、WKA世界ミドル級王座を83年に獲得したのを皮切りに、WKA世界ジュニアライトヘビー級王座
WKA世界スーパーライトヘビー級王座 、IMTA世界ライトヘビー級王座などの世界タイトルを手に入れる。
特筆すべきは、当時、WKA世界ライトヘビー級チャンピオンだった、ドン・星野・ウィルソンが同級1位のカーマンとのタイトルマッチを極端に避け続けたため、なんと、WKAはカーマンの為にジュニアスーパーライトヘビー級王座を新設。当然、初代王者はカーマンという、異例の事態に発展する。

日本では、全日本キックボクシング連盟に1987年、初来日。ムエタイのチャンピンだったラクチャート・ソーパサドポンを1RKO。その後、ドン・ナカヤ・ニールセンや、ピーター・スミットなど、世界的な選手と対戦。当時、日本のキック界は低迷していたため、日本人の代わりにカーマンが全日本キックを支える形となっていた。

1992年にはリングスに参戦。佐竹や角田、アダム・ワットなどの正道会館勢と対戦。
そして、K-1主催のK-2に参戦。ライバル、チャンプア・ゲッソンリットに敗れる。

引退試合の相手は現在、K-1のトップスターとなったアレクセイ・イグナチョフ。結果は判定勝ちだったが、微妙な判定で、勝ったのはイグナチョフの方だと、イグナチョフを称えた。

対角線の攻撃、必殺のローキック、独特の風貌と人間的なすばらしさ。
「キックの帝王」と呼ばれるにふさわしい、格闘家の教科書だった。


私的ベストバウト
○ロブ・カーマンvsドン・ナカヤ・ニールセン×
       (KO)


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レジェンド―オランダ格闘家列伝
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2008年08月28日

マッハパンチ 猪狩元秀

現在、初期のK-1の元レフェリーとして有名だった猪狩元秀
日本大学在学中より日本拳法部で活躍。現在、
日本拳法協会理事長・主席師範九段。日本拳法をベースとした重いマッハパンチと呼ばれる必殺技でキック界にデビュー後は連戦連勝で、ムエタイ統一王者サタンファー・ソープラティープを敵地ルンピニー・スタジアムでKOするなど、頂点を極めた。

「マッハパンチ伝説 猪狩元秀」

1979年にはマーシャルアーツ旋風の中、WKA世界ミドル級王者となる。
1982年の引退後は日本拳法に戻り後進の指導の傍ら、かつての名選手としてK-1のレフリーを努めた。
ムエタイの現役王者を3人もKOしてる格闘家はいない。いかに猪狩元秀がすごいキックボクサーかが分かる。

戦績 75戦64勝(57KO・KO率89%)9敗2分

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日本拳法 入門編
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日本拳法 組手基本編
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2008年07月27日

超象 チャンプア・ゲッソンリット

立ち技最強といわれるムエタイ。その中で、タイ国外でほとんどの試合をし、近代ムエタイの発展に貢献したと思われるのが
チャンプア・ゲッソンリット
チャンプア当時、オランダキックボクシング界は急速な発展をとげ、ロブ・カーマンやピーター・スミットなどがその中心選手だったが、ムエタイでは彼らのウェイト(ライトヘビー、ミドル級)の選手が手薄で、ウェルター級の選手がオランダ勢の対戦相手だったのだが、あまり芳しくなかった。そんな中で現れたのがチャンプア。
日本での初お目見えは、新生UWFの東京ドームにおける「U-COSMOS」で安生洋二と対戦。(結果はドロー)
その後、日本のキックボクシングのリングで何戦かした後、K-1に参戦。重量級の選手に混じり、ムエタイ代表として孤軍奮闘した。

チャンプアのファイティングスタイルは、ほとんど左ミドルと左ローキックという「左」主体である。しかも、この左ミドルと左ローキックは非常に強烈でアメリカ遠征時には、ローキックで相手の足を骨折させている。
この一見、ワンパターンと言ってもいいくらいのファイティングスタイルなのだが、対デル・クック戦のように、強烈な左ミドルを一発打ち込んだあとでパンチで仕留めるスタイルで数々の名勝負を展開した。

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1994年、マイケル・トンプソンと対戦。3R開始直後、後ろ蹴りでKO負け。この蹴りで小腸断裂という大怪我を負い、一時リングを離れるのだが、復帰後数試合するものの、あまり芳しくなく、2006年、母国タイにて引退した90年代ムエタイ最大の功労者と言っても過言ではない。

戦績167戦150勝15敗2分138KO
私的ベストバウト
聖戦 III UKF世界ライトヘビー級タイトルマッチ
○チャンプア・ゲッソンリット(判定) 金泰泳×

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2008年06月21日

キックの荒鷲 藤原敏男

昭和30年代後半、当時「けんか空手」と言われた極真空手の3人がタイ国のムエタイと試合をすることとなる。不慣れなグローブを着け、なんとか勝ち越したが、タイ式ボクシングの強さに舌を巻くほどであった。その3人の中に「鬼の黒崎」と言われた黒埼健時がいた。ムエタイに魅せられた黒崎氏は目白ジムを設立し、ムエタイを倒す選手の育成に励むようになる。この目白ジムの所属選手が藤原敏男だ。


当時、目白ジムには島三男、大沢昇をはじめ、オランダ目白ジムの会長ヤン・プラスなど、怱々たるメンバーを輩出し、藤原もその中で過酷なトレーニングを送っていた。新設された全日本キックボクシング連盟の全日本ライト級王座に就き、連勝街道まっしぐら。タイの二大雄、ラジャダムナン、ルンビニーの両スタジアムのランキング入りを果たし、ついにタイ国ラジャダムナンスタジアム認定ライト級王座への挑戦を獲得する。タイトルマッチは日本武道館。史上初の国外でのタイトルマッチ。
藤原は王者モンサワン・ルークチェンマイを4Rクリンチ状態からサバ折りのまま倒れると同時にヒジ打ちを放った。気を失った王者はそのまま立ち上がれず藤原のKO勝ち。藤原は日本キック界の念願だったムエタイを破り、史上初の外国人チャンピオンとなる。
藤原はその後、タイにてタイトルマッチを行うが、地元びいきの判定負け。
タイトルを失った藤原は師である黒崎氏の新格闘術の旗揚げに参加することとなる。
1983年2月に現役引退。通算戦績は126戦(97KO)13敗2引き分け。

現在は藤原ジムを主宰し、WKA世界ムエタイライト級チャンピオンの小林聡を育てるなど、第2の藤原の育成に励んでいる。
尚、小林聡はノンタイトル戦ながら現役のラジャのチャンピオンにKO勝ちしている。

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私的ベストバウト
ラジャダムナンスタジアム認定ライト級 タイトルマッチ
○藤原敏男vsモンサワン・ルークチェンマイ×
(4R KO。藤原王座獲得)

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2008年05月29日

第2次キック界の救世主たち

日本キックボクシング団体の老舗、全日本キックボクシング連盟。
その創設はキックの全盛期だった昭和40年代。藤原敏男や猪狩元秀らを輩出した。

しかし、"キックの鬼"沢村忠が引退。キック界は衰退し、全日本キックも活動を休止する。
バブル期だった1987年、向山鉄也、斎藤京二、赤土公彦らベテランをメインに新生全日本キックは復活。
当時の全日本キックはWKAと提携していたため、WKAの外国人選手が売りで、ロブ・カーマンや、ロニー・グリーン、モーリス・スミス、デル・クックなど外国人チャンピオンたちのカードが人気だった。当然、メインもWKAのタイトルマッチで、日本キック界は低迷していたため、日本人選手の実力、人気はイマひとつで、スター選手もいなかったが90年代に入り、3人のフェザー級チャンピオンにより、日本キック界はふたたび、息を吹き返すことになる。

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清水隆広
そんな日本人スター選手不在の中、1989年、全日本フェザー級王者となった清水隆広。清水は当時、ベニー・ユキーデのJETセンターとの提携で話題になっていた正心館(現*勇心館)所属で新空手からのキックデビュー。国際式ボクシングの経験のある清水は当時チャンピオンだった、鏡純一を武道館興行におけるタイトルマッチでKO。全日本王座を手に入れる。独特の風貌とKOで平成キック界初の日本人スターとなり、全日本キックも清水をメインイベンターに。そしてWKA世界スーパーバンタム級、フェザー級2階級制覇。武道館興行では"ムエタイ9冠王"チャモアペットと対戦するも、いいとこがなく判定負け。ムエタイとの実力の差を見せつけられることとなる。引退後はREXJAPANを設立し、数多くの選手を育てている。
HEAT928(vsチャモアペット)
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敵はムエタイに在り(vsルンチャイ)
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立嶋篤史
清水隆広が中心になっていた90年代初め、清水との対戦を執拗に要求していたのが立嶋篤史。立嶋は10代の時、単身タイへムエタイ留学。その後、キック界で頭角を出し、念願の清水との対戦は世界チャンピオンの清水をローキックでKOし、注目を浴びていた。インタビューなどでのビッグマウスや態度が批判も浴びたが全日本キックは日本キック界で初となる年俸1200万というシステムを立嶋に導入。話題になる。交流戦となったMA日本キックの゛和製ユキーデ"山崎道明との一戦は立嶋のヒジ打ちが面白いように決まり、彼のベストバウトの一つだろう。多くの同年代の選手が引退するなか、まだ現役である。

KICK SPIRITS-VIII (’96.9.29、後楽園ホール)
立嶋篤史 ゴーンサヤーム 熊谷直子
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KICK OVER-I

DESTINY-7〜立嶋篤史vs佐藤孝也
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キックボクシング30周年記念興行(’96.11.17、後楽園ホール)
立嶋篤史 貝沼慶太
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DESTINYI
立嶋篤史
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CHALLENGER-I
立嶋篤史 チャモアペット・チョーチャモアン 前田憲作
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立嶋篤史
立嶋篤史 清水隆広 山崎通明
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立嶋VSエビアップ リベンジマ
立嶋篤史 エビアップ
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KICK SPIRITS-7
前田憲作 立嶋篤史 小野寺力
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KICK OVER-I
立嶋篤史 ランカー・チャナサック
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KICK OVER-IV
立嶋篤史
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全日本キックボクシング BURNING-5〜1998.7.8 東京・後楽園ホール〜
立嶋篤史 金沢久幸 土屋ジョー
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立嶋篤史という生き方[ビデオ]

前田憲作
清水に代わって立嶋の天下となっていた1992年、全日本フェザー級タイトルマッチにて当時、青空ジムとして有名なシンサック・ビクトリージム所属の同級第2位前田憲作が対戦。大方の予想は立嶋のKO勝ちだったが、結果はなんと前田の判定勝ち。当時無敵の立嶋を倒したことで、前田は注目を浴びることとなる。
当然、前田はメインイベンターとなり、WKA世界ムエタイスーパーフェザー級王座やWAKO PRO 世界キックボクシング王座も手に入れ、そのルックスから、映画「ろくでなしBLUES」の主演をつとめることとなり、メディアにもたびたび取り上げられる。
前田はブラスターソード(回転後ろ回しヒジ打ち)やハイパー・サイクロン(飛び二段蹴り)など大技も試合で繰り出し、試合も華があった。。
引退は記憶にも新しい2002年、K-1の舞台だった。引退セレモニーには各界から多くの人が駆け付け、前田の人望の厚さが伺えた。
現在ではK-1で活躍する小比類巻らの所属する「チームドラゴン」を主催。後進の指導に励んでいる。
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One Truth 5th
前田憲作 立嶋篤史
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KICK OVER-IX
前田憲作 立嶋篤史 J.バージェス
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Evolution STEP6(’93.9.25,後楽園ホール)
DESTINY‐X
前田憲作 立嶋篤史 佐藤孝也
B00005H2XD

前田憲作
中島貴志 立嶋篤史 メオパー・フェアテックス
B00005H2XI

前田VSエビアッブ/佐藤VS立嶋 CHALLENGER-
(全日本キック)
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One Truth 7th
B00005IOUE



ろくでなしBLUES
森田まさのり こがねみどり 那須博之
B0006B9ZJU


ろくでなしBLUES 2
森田まさのり 室賀厚 前田憲作
B0006B9ZK4


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2008年05月24日

キックの鬼 沢村 忠

昭和40年代、月曜夜7時はほとんどの家庭のテレビはTBS系のこの番組が映し出されていた。その名もズバリ「キックボクシング」。
YKK提供のこの「キックボクシング」は野口プロモーションの日本キックボクシング協会の試合をTV中継するというもの。当然その中心選手は゛キックの鬼"こと沢村忠。
視聴率は毎週30%を越え、昭和48年には沢村は当時、三冠王の王や、大鵬を退け日本プロスポーツ大賞に輝くというスーパースターとなった。

この新興プロ格闘技がここまでの人気スポーツになるまでは沢村本人と野口プロの野口修氏との二人三脚による苦労の成果でもあった。
真空飛び膝蹴りの真実―“キックの鬼”沢村忠伝説真空飛び膝蹴りの真実―“キックの鬼”沢村忠伝説


昭和30年代後半、ボクシングのプロモーターの野口氏はたびたびプロモーション活動でタイに訪れることが多かった。タイでムエタイのすごさを感じた野口氏は「なんとか日本に持ち込めないものか」と考える。そこで日本人空手家をムエタイに挑戦させたがイマイチ。そんな時゛蹴りの白羽"のうわさが野口氏の耳に入る。

その白羽秀樹こそ後の沢村である。当時、白羽秀樹は日大2年生ながら全日本選手権で優勝し、空手界期待のホープだった。野口氏はその白羽を「沢村忠」というリングネームにし、ムエタイと戦わせる。初戦はKO勝ちだったが、二戦目ではなんと16度のダウンを喫し、救急車で病院送りにされることとなる。

ムエタイの怖さを身をもって体験した沢村は野口氏の命名した「キックボクシング」第一号となり、タイでムエタイの修行を始める。

帰国した沢村は野口氏とともに、キックの興行を行うが、知名度のないキックは客の入りは悪く、テレビ局のお茶くみなどをして、一年後、ようやく放映にこぎつける。
その後、ゴールデンタイムに進出。視聴率も常に30%台。キックの黄金期を迎えることとなる。

沢村の試合はとにかく面白かった。最初は劣勢になり、ダウンを奪われたりもするが最後には
「真空飛びヒザ蹴り」や「飛び前蹴り」を必殺技に劇的なKOで勝つ。沢村が負けることなど思いもしなかった。バネのようなハイキックやマウスピースをゆっくり口から出しながらダウンするなど劇画チックな試合展開で瞬く間にキックボクシングは人気スポーツになり、沢村自身もスーパースターになっていく。
当時の沢村はほとんど毎週のように試合があり、テレビ、ドラマ、レコードまで、数々の仕事をこなし多忙を極める。沢村を題材にした「キックの鬼」というアニメまで作られた。
ところが人気絶頂の昭和51年、沢村は突然失踪。翌年、後楽園ホールにて引退式。沢村引退後のキックボクシングは富山勝治をエースに起用するも、スーパースター沢村の抜けた穴を埋めることができず、テレビ中継も数年後に打ち切られ、衰退していく。
沢村は引退後、マスコミには全く露出しなかったため、いろいろな憶測が飛び交ったが、キック引退後は大好きだった自動車関連の仕事をしながら、子供たちに空手を教えていた。数年前から、少しではあるがキックのビデオやマスコミにも登場するようになった。

戦績241戦232勝(228KO)5敗4分
200勝投手は何人もいるが、200勝キックボクサーは沢村だけだろう。
昭和40年代の日本の高度経済成長とともに現れたスーパーヒーローだった。


私的ベストバウト
東洋ライト級タイトルマッチ
○沢村忠vs サネガン・ソーパッシン×
 (4Rヒジ打ちによるKO)



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懐かしいTV動画

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2008年05月13日

"野武士"竹山晴友

地上最強のカラテ、極真会館で全日本選手権準優勝した後、キックボクシングにデビューし、80年代、旋風を巻き起こしたのが、竹山晴友。

当時、極真の主力選手だった竹山は故大山倍達極真会館館長に「ムエタイに挑戦させて下さい」と懇願。極真を脱退し、"小さな巨人"大沢昇に弟子入り。大沢氏の経営する「大沢食堂」を手伝いながらトレーニングに励む。

大沢ジム所属となった竹山はマーシャルアーツ日本キックボクシング連盟にてデビュー。デビュー以来、前に前に出る極真戦法で連続KOの記録を作り、人気を得る。
連盟も、竹山のために、日本ミドル級王座を新設。竹山は初代王者となる。
その後、パーヤップやラクチャートなどのムエタイチャンピオンと対戦し、勝利するも、突然の引退で格闘技界から身を引いた。
現在は新極真会に所属。後進の指導にあたっている。

竹山晴友先日、アンドレ・マナートと対戦予定だった竹山晴友が病気のため欠場することになったのは残念だが、また、竹山の戦う姿が見られるだろう。
この頃はキック界はどん底の時代で私も格闘技雑誌の白黒の少ないキックボクシングのページで竹山の情報を知るしかなかった。当然、映像などは、ビデオもまだ高価だったため、見ることも出来なかった。今はビデオなど安価になってきたので竹山の勇姿を見ることが出来る。この機会に80年代のキックのスターを見るのもまたオツかもしれない。

伝説のサムライプロレス&格闘技「サムライたちの宴」



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第3回オープントーナメント全世界空手道選手権大会名勝負30番


梶原一騎20回追悼記念スペシャル 実録! 大山道場&黒崎健時 〜蘇る43年前の極真空手伝説〜DVD





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