2008年05月24日

キックの鬼 沢村 忠

昭和40年代、月曜夜7時はほとんどの家庭のテレビはTBS系のこの番組が映し出されていた。その名もズバリ「キックボクシング」。
YKK提供のこの「キックボクシング」は野口プロモーションの日本キックボクシング協会の試合をTV中継するというもの。当然その中心選手は゛キックの鬼"こと沢村忠。
視聴率は毎週30%を越え、昭和48年には沢村は当時、三冠王の王や、大鵬を退け日本プロスポーツ大賞に輝くというスーパースターとなった。

この新興プロ格闘技がここまでの人気スポーツになるまでは沢村本人と野口プロの野口修氏との二人三脚による苦労の成果でもあった。
真空飛び膝蹴りの真実―“キックの鬼”沢村忠伝説真空飛び膝蹴りの真実―“キックの鬼”沢村忠伝説


昭和30年代後半、ボクシングのプロモーターの野口氏はたびたびプロモーション活動でタイに訪れることが多かった。タイでムエタイのすごさを感じた野口氏は「なんとか日本に持ち込めないものか」と考える。そこで日本人空手家をムエタイに挑戦させたがイマイチ。そんな時゛蹴りの白羽"のうわさが野口氏の耳に入る。

その白羽秀樹こそ後の沢村である。当時、白羽秀樹は日大2年生ながら全日本選手権で優勝し、空手界期待のホープだった。野口氏はその白羽を「沢村忠」というリングネームにし、ムエタイと戦わせる。初戦はKO勝ちだったが、二戦目ではなんと16度のダウンを喫し、救急車で病院送りにされることとなる。

ムエタイの怖さを身をもって体験した沢村は野口氏の命名した「キックボクシング」第一号となり、タイでムエタイの修行を始める。

帰国した沢村は野口氏とともに、キックの興行を行うが、知名度のないキックは客の入りは悪く、テレビ局のお茶くみなどをして、一年後、ようやく放映にこぎつける。
その後、ゴールデンタイムに進出。視聴率も常に30%台。キックの黄金期を迎えることとなる。

沢村の試合はとにかく面白かった。最初は劣勢になり、ダウンを奪われたりもするが最後には
「真空飛びヒザ蹴り」や「飛び前蹴り」を必殺技に劇的なKOで勝つ。沢村が負けることなど思いもしなかった。バネのようなハイキックやマウスピースをゆっくり口から出しながらダウンするなど劇画チックな試合展開で瞬く間にキックボクシングは人気スポーツになり、沢村自身もスーパースターになっていく。
当時の沢村はほとんど毎週のように試合があり、テレビ、ドラマ、レコードまで、数々の仕事をこなし多忙を極める。沢村を題材にした「キックの鬼」というアニメまで作られた。
ところが人気絶頂の昭和51年、沢村は突然失踪。翌年、後楽園ホールにて引退式。沢村引退後のキックボクシングは富山勝治をエースに起用するも、スーパースター沢村の抜けた穴を埋めることができず、テレビ中継も数年後に打ち切られ、衰退していく。
沢村は引退後、マスコミには全く露出しなかったため、いろいろな憶測が飛び交ったが、キック引退後は大好きだった自動車関連の仕事をしながら、子供たちに空手を教えていた。数年前から、少しではあるがキックのビデオやマスコミにも登場するようになった。

戦績241戦232勝(228KO)5敗4分
200勝投手は何人もいるが、200勝キックボクサーは沢村だけだろう。
昭和40年代の日本の高度経済成長とともに現れたスーパーヒーローだった。


私的ベストバウト
東洋ライト級タイトルマッチ
○沢村忠vs サネガン・ソーパッシン×
 (4Rヒジ打ちによるKO)



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posted by 20c at 16:45| Comment(0) | TrackBack(0) | キックボクシング | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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